見舞い

父は白内障での入院中、多少の呆けもあったようだが、術後経過も良好で

退院後には、また一人で食材の買い出しに出掛けていくようになっていた。

白内障解決に伴い、視界も晴れ、足運びまでが何となく改善された印象で、

こちらの方は一安心といったところ。
 

その父が母の救急搬送翌日、入院の準備を整え病院へ向かおうとする私を

待ち構えていたかのように「自分も病院へ連れて行け」とねじ込んできた。

長年連れ添う夫婦としては、至極当然のことであろうが、できれば父には

自重してもらいたい局面だった。

 

母は抗生剤投与の効果で症状は安定の兆しがある一方、未だ意識は

戻らないままで、私は緊急入院による諸々の後処理に追われる状況。

病状説明があるのか、入院の手続きに時間をとられるか、とにかく、

その日の段取りがどうなるか、病院に行ってみなければ分からない。

 

父と一緒となれば、その見守りまで私に負荷されることになるし、

何より、意識も会話もままならない状態の母を見舞ったところで、

どうせ、仕切り直しの憂き目を見るだけの話しとなる。

 

「母の見舞いは、目が醒めて話せるようになってからにした方が…」と、

言ってはみたものの、この状況について一人悶々と気を揉んでいた父に

その聞き分けの余地など一切なく、結局、入院用具一式と父を積み込み、

搬送二日目、病院ひ向うことになった。

 

病室に入いり、母を確認するや抑えていた感情を吐き出すかのように父は

オロオロと泣き出す有様。私がこれ程に取り乱した父の嗚咽を聞いたのは

過去に一度だけ、父の母、祖母が亡くなった時だった。葬儀から帰った夜、

母を相手にしたたか酔い「祖母が哀れだ」などと呻き、声をあげて泣いた。

 


 

祖母が亡くなったのは、私がまだ小学校に入学して間もなくの頃だったが、

大層厳格で私達家族全員にとって絶対的な存在だった父が、あられもなく

嗚咽する様子は、鮮明な記憶として残され続ける結果となった。

 

その数年後に祖父も他界するのだが、6人兄弟姉妹の上から三番目という父。

祖父母の扱いについて、他の兄弟達と余程に意見が合わなかったものとみえ、

祖父の死を機に、父は兄弟縁者との付き合いを一切断ってしまうことになる。

 

時は過ぎ、縁者達との復縁の兆しもなく、人との交流に繋がる趣味も持たず、

80歳を過ぎて以降の父の社会性は、母を窓口にした範囲で成立してきた訳で、

日々の話し相手は母くらいのもの。もし、父の娶った相手が母でなかったら、

今頃、父は独居老人と化し、完全に世間から隔絶されたていたに違いない。

 

そんな父を、時に愚痴を溢しながらも受け入れ続けてきた母が意識をなくし、

搬送され、その姿を見た父は人目も憚らず取り乱した。その後、母は何とか

覚醒するが「目が醒めて帰って来るなら、もういい」と言い、父は二度目の

見舞いに出向くことはなかった。

 

父との関わりについては、日毎進行する老人性難聴も要因となりながら、

意思疎通のすれ違いが常態化していて、その時々の経緯を相談しながら

行動を共にしていくことが難しくなっていく。それは病を得、不自由が

増す母の介護への負担よりも、私にとって大きなストレスとなっていた。

  

       山塊の一枚となる春の闇